地球の質量に占めるケサランパサランの割合

常に未完成の文章を公開していく試みです。

初演録(2020)

2020.2.8
新曲・秘曲を聴く会 第2回定期演奏会

《知られざるピアノの響き》

~ソル・シベリウスモンポウを中心に~

@アトリエ空間工場

ギターにまつわる作品、フェルナンド・ソルからモンポウへと、時間軸に沿って離陸していくという一連の物語を辿っていくようなプログラム(以下)。

J.S.バッハ:『無伴奏チェロ組曲』より 前奏曲 ト長調ニ短調ハ長調(編曲・ピアノ:山中哲人)

・フェルナンド・ソル:アンダンティーノ、グラン・ソロ(編曲・ピアノ:山中哲人)

・ジャン・シベリウス:ピアノ・ソナタ ヘ長調 Op.12(ピアノ:萩生哲郎)

・北條立記:~浜口陽三へのオマージュII~(チェロ:北條立記)

フェデリコ・モンポウ前奏曲第5番、第6番(左手のために)、「歌と踊り」第1番(ピアノ:加藤チャーリー)

・青木聡汰:《前奏曲集》より「フェデリコ・モンポウへのオマージュ」(ピアノ:青木聡汰)

・木下紀子編曲:カタルーニャ民謡「聖母の御子」(ピアノ:青木聡汰)

フェデリコ・モンポウが貫いた、あくまで「展開部」を否定して一つ一つの音そのものに永遠の反復可能性を聴きこむ姿勢は、パリのアカデミシャンや展開部主義者たちに対する、沈黙による非暴力的異議申し立てが籠められており、音楽史的な意義は深い。
このたび改訂再演した「フェデリコ・モンポウへのオマージュ」(ノーカット版)では、架空カタルーニャ民謡なる旋律をひたすら繰り返していった果てで、「第3の聴こえないオーケストラ:モンポウがもし純管弦楽作品を作っていたらどうあったか、その架空ピアノ・リダクション」という設定を持つゆるやかな銅鑼とトライアングル、カスタネットの舞踏のフェードアウトのイメージによって、締めくくることとした。
★北條さんは、再び、版画家の「浜口陽三へのオマージュ」を自作自演されていた。黒を基調とする地に赤い斑点がぽつぽつと浮かび上がるその版画作品のように、闇のなかから突き出してくる蠢きイマージュがチェロの弓となり、ノイズの一瞬のきしみ、澱み、といったものまで塗り込んでいく痛切なナラティブを感じさせた。
★加藤チャーリーさんが弾くモンポウ前奏曲集」からの抜粋は、第5番をやや早めのテンポで取り、第6番(左手のために)を深々と聴かせる、という巧みなペース配分。
シベリウスピアノソナタは実演で聴くのは初めてとなる。第二楽章は合唱曲からの編曲が核となっている、というピアノ音楽としては異例の創作プロセスを辿ったという萩生さんによる解説もなされ、それによってこのソナタ特有の第二楽章の広がりある質感が実現されたのではないか、という談義も後ほど交わされる。また、日本シベリウス協会がシベリウス・ピアノ作品全曲演奏会を催した際、フィンランド関係者より招きがあり、萩生さんがアイノラにて弾かれたときのエピソードなども盛り沢山。
★並べて聴くと、シベリウスモンポウ、北と南に対峙しつつも、辺境で送った境涯へのまなざしには、通じ合うところのものあり。

初演録(2019)


2019.12.8
秘境探訪~クラシック音楽の新曲・秘曲を聴く~

@アトリエ空間工場(世田谷代田)

プログラム

■第一部

グリーグ:『抒情小品集』からアリエッタ、ワルツ、鳴り渡る鐘、過ぎ去って(思い出に)、追憶
・加藤千晴:「落葉姫」より3つの小品、ソナチネッタ
コリン・マシューズ:噴水
・ハワード・スケンプトン:凧
・A.トゥービー:赤い鳥
・ケヴィン・ヴォランズ:リストロック

加藤千晴(ピアノ)

ジョン・ケージ:「四季」より前奏曲 2.春、ある風景の中で

小畑有史(ピアノ)

早坂文雄:室内のためのピアノ小品集より第1、11、14曲

横田直行(ピアノ)

・水野修孝「ピアノのための無言歌集」~第1,2,4,8,10,13,14曲
・「These Foolish Things」「Body and Soul」「瑠璃色の地球」(編曲:水野修孝)
一柳慧:限りなき湧水(1990)
・北條立記:Wint、The Little Song II

萩生哲郎(ピアノ)

・青木聡汰:Sonatina for the left hand,No.1 Spring

青木聡汰(ピアノ)

■第二部

フランス革命前夜のパリ・ヴェルサイユの音楽
山中哲人(チェンバロ

北條立記:子守歌、浮遊と忘却、slash、パリの屋根
北條立記(チェロ)

・青木聡汰:Sontaina for the left hand, No.3 Autumn

青木聡汰(チェンバロ

★社会構築主義的な視点から、音楽作品をその外側に広がった環境との関係によって読み直していく音楽社会学のまなざしは、昨今、ますます鋭いものとなってきている。そこでは、鑑賞者のジェスチャーといった輪郭までも省察の対象となりえていく。この度、呼んで頂いた「秘曲を弾く会」は、音楽作品が演奏され、鑑賞される「場」まるごと、世田谷代田郊外を中継地点とする小ツアーとなった。郊外を行く自動車の音、鳥の鳴き声、行き交う人々のやりとり、に至るまでもピアノの音色ごと包みこんで、演奏場であるアトリエ空間工場と、音楽作品との相性が試されていくこととなるかもしれない。そのとき、思いがけず滅び去ったものたちが蘇り、失われ行くものたちに、最後のノスタルジアがちらつくだろう。その反転の瞬間を、眺めてみたい。

2019.8.15

 8/27のIdomineo演奏会で弾くための「フェデリコ・モンポウへのオマージュ」の浄書にかかっている。その合間、モンポウ自身による自作演奏を聴く。例えばミケランジェリチッコリーニのようなヴィルティオーゾのようには必ずしも滑らかでない作曲者自身の演奏とはいえ、その打鍵は深い。「風景」~I.「泉と鐘」の、自身のタッチでなくては伝わりえない、一音一音の存在理由が確かに伝わってくる。

 根っからの音詩人、といった風采である。20世紀のショパンよろしく作品のほとんどがピアノ曲、あるいは歌曲。もし鐘職人の家に生まれていなかったら、あのような摩訶不思議な和音は探求されていなかったに違いない。印象的なのは、人物像としてのシャイさというかHSP的な一面。とりわけフォーレに師事しようと、グラナドスからの紹介状を携えてコンセルヴァトワールの待合室まで訪ねるも、面会の直前で怖気づいて帰ってしまったために、パリでの作曲修業を当初から断念せざるを得なかった、というエピソードのせいもあって多少誇張されている一面はあるかもしれないが、しかしこれが決して裏目に出たのではなかった。むしろパリでありきたりなアカデミズムに染まって、複雑構築的なソナタの書法を会得してしまったならば、あの閑、静謐の極地としての《ひそやかな音楽》は書かれなかったに違いないのだから。そして、庭に噴水があった人らしく、小さな風景のなかに潜む、巨きな宇宙をいつも聴きとっていたのだろう。

 「ひそやかな音楽」、原題はMúsica Callada。しかし単に音数が少ないとか、デシベル値が小さいとか、というだけではなく、剥き出しになるのだ。恐らくはヴィトゲンシュタインが、「私の世界の限界」と書いたその語りえぬものと語りうるものの境界が。しかし、語りうるものなど、実はなにも存在しないのかもしれない。という祈りよりも確かに、当時の混迷を生きぬいた痕跡が聴こえてきて、音なのか、沈黙なのか、神秘なのか、計れなくなる。思わず眼を閉じずにはいられなくなった。

 しかし同時に、彼が大編成の為に書いた唯一?の作品《Os Improperios》のことがどうしても頭をよぎるのだ。1963年、モンポウの作品に最大限の賛辞を惜しまなかったプーランクが亡くなった。奇しくも同年に、初の大編成作品の依頼を受ける。クエンカにおける宗教音楽祭のためであった。彼を追悼すべく《Os Improperios》を書き上げるが、この頃にはすでに《Musica Callada ひそやかな音楽》の作曲にも取り掛かっていたから、彼の晩年の二大傑作とでも括りうるかもしれない。

 オーケストラと合唱全体を、巨大でいて静かに鳴り響く鐘のように見たて、そのなかに反響する様々な声を、どこまでも簡潔であるがゆえ限りなく豊かな詩的宇宙へと遥かな広がりを与えていく20分間は、あくまで静謐そのもののように過ぎていく。ときどきフォルテが書かれる。裂け目のように。あるいは束の間の祭祀のように。しかしチェレスタが実に魅惑的タイミングできらついたり、この作曲家だけが試した数々の和音、音の実在よりもむしろ音と音との隙間、音の非在から香りたつ神秘性は、時として狂気的なまでにひとつの和音に深々と耳を澄ますことを誘う。やがてハープ伴奏のみによるバリトン・ソロが訪れるが、その和音はカトリックの宗教曲というよりも、古代ギリシャ演劇における韻律(メロス)のようなアクセントをもたらす。不当にも演奏機会に恵まれていないというのが信じ難いほど20世紀宗教音楽の傑作で、メシアン「3つの小典礼曲」、デュリュフレ「レクイエム」「ミサ・クム・ユビロ」、プーランク「グロリア」といった作品にひけを取らない。

 ここで浄書中の「オマージュ」に話を戻したい。曲のクライマックスで「泉と噴水」「ひそやかな音楽一集~I.Angelico」の両作品にともに見られる旋律、が引用されることとなった。さらにその続きには、「第三の聴こえないオーケストラ」と記されたコーダを書き加えた。寸前に、オーケストラによるチューニングの音を模した数拍のパッセージが奏でられれ、やがて静かになり、束の間の沈黙を経て「聴こえないオーケストラ」という部分が始まる、といった流れを辿る。このアイデアを取り入れたことにはもちろん理由がある。まず「第三の」とは、「第6の幸福をもたらす宿」(ところで最近、原曲を初めて聴いてなかなかよかった)とか、巻き上げられた第9の次元とか、3という数にまつわるものへのまことしやかなオマージュとしてなら何を引き合いに出しても良さそうではあるが、ここではドゥルーズのあらゆる主体から解き放たれた、「第3の時間」という概念に寄せている、とだけ記します。

 しかし日常言語において「聴こえないオーケストラ」とは何かと申せば、モンポウもまたあらゆるピアノ曲において、オーケストラの響きを思い描いたに違いなく、恐らくは、そういう「夢」なのです。

2019.8.26-8.27:本番。白金高輪区民センターにて。

 ところで事前に演奏時間を計ってみたところ、「フェデリコ・モンポウへのオマージュ」だけで、11分もあったためこれはいささか冗長すぎると鑑みた。それゆえこの楽章の複雑な前半部分は全てカットし、「絵のない絵本への前奏曲」「フェデリコ・モンポウへのオマージュ」の後半の明瞭な部分だけを残し、そして「三善晃へのオマージュ」を繋げて、十数分の演奏時間に収めることとした。いわば「白金高輪版」というものですね。「三善晃へのオマージュ」は短すぎたかもしれないので、少し加筆したい。

 さて、こうして演奏譜をなんとか間に合わせ、いざ本番。弾いているときに、弾いていることを意識してはいけない。勝手に手が動く、というのが理想だ。「おはようございます」と伝えるとき、「おはようございます」と発話しているのを改めては意識しては台無しなように。ということを目指しつつもその実現に20年もかかってしまった。ちょっと遅すぎた。練習しているときはなんとなく実現できているように思えても、本番になると緊張からか途端に精神的にがんじがらめになって音の無意識化に失敗し、ゲシュタルトの崩壊が生じ、弾き慣れているはずの音の自明性が揺らいで、暗譜は飛び、破綻してしまうこともあった。

 ところが、双眼鏡を反対側から覗き込んだときのような、一歩遠くからの自分の姿、というのを想像する。すると、自分はステージの上で指を動かしているひとりのちっぽけな取るに足らない存在か!というちいさな世界、におけるちいさな自分の影、だけを思い浮かべてみる。指先を鍵盤上ではためかせているときこそ、独我論的な儚さを抱き続けるようにする。こうしていると、やっと落ち着けて演奏に望め、あわよくば「楽しむ」にまで至ることができる。何とかそのコツというか、片鱗を掴みえてきたのではないか。

 さて気がつかないうちに、夢中になるように誰かについていって、深入りしていたものこそ、洞窟だ。ほの仄いこの洞窟に入っているうちは、それについてのあらゆる自己言及が闇のなかへと消える。だからここに書いているこの文章のように、洞窟の中で彷徨っている自分について第三者のまなざしで述べ直すということは、洞窟を出て、少し時間を置いてからでなくてはできない。そのための言葉が降りてくるまで、一日も二日もかかってしまう自分の無能を、まずは呪おう。しかしこの呪いなくしては、なにも書き得ないに違いない。と書いてみて気がついたのは、満ち足りた音楽現場をあとにした直後には、言葉が降りてこなくなるということだ。ありとあらゆる言葉が千切れて、空虚な断片と化し、何事も語りえていないかのように、細やかさを欠いた大雑把な語彙と化す。音楽によって、言語野が侵されるのだ。しかしそうでなくては意味がない。饒舌な人間を、寡黙に至らしめる、というのも音楽のひとつの使命なのだから。

 今のところ、「12の前奏曲」となる予定であるが、全部で演奏時間がどのくらいに及ぶのか想像もつかないし、いつ全曲、完成するかも分からない。恐らく今年中は不可能。来年になるかもしれないし、5年後かもしれない。他にもたくさん書かなければならない作品がいつのまにか山のように積もってしまったけれど、それでもなんとか順番を見極めて、完成に持って行けたなら、これほど喜ばしいことはないだろう。

フェデリコ・モンポウに関する参考文献:

http://ir.lib.u-ryukyu.ac.jp/bitstream/20.500.12000/37305/1/No2p4.pdf

 

2019.4.3

「架空の詩人への哀歌」(ピアノ版)が、ピアニスト・松田祐輔さんにより再演される日だったので、その会場となる目黒パーシモン小ホールへと足を運んだ。

[…]リハーサル中、《ニュー・シネマ・パラダイス》のテーマにうっとりしてしまう瞬間もあり、作曲者モリコーネの書いた旋律は、濃厚なクリームたっぷりティラミスみたいで、一生に一度くらいはああいうのを書いた実感に酔いしれたまま永遠の眠りにつきたいという思いが心の片隅に眠っているのかもしれない。ということに気づいたときはじめて、コンサートホールが客席の闇から、ステージの眩い光へのスロープ:カタルシスという極限へと収束していく一連の劇場へと翻っていった。ならばこそ、ここはコンサートホールである、ということも知ったのである。

 この映画を観たことがなかった。しかしそれゆえ、映画の文脈とは関係のないところから、この「愛のテーマ」に耳を澄ませる自由が与えられた気がする。歌唱用に歌詞がついたバージョンで演奏されていたが、イタリア語で歌われるときのみに出現する、ラテン語を起源とするあの言語の、ある意味で野蛮な響きが耳をうった。そのとき、古代ローマ兵が凱旋する鎧のジャラジャラとした装飾、アッピア街道のゴツゴツとした敷石がただちに連想された。そうだ、これは石と金属の言葉なのだ。日本語が土と木の言葉であるのと違って。廃墟と化した円形劇場の座席に佇み、常に同心円からの視点に曝されながら、そのパノプティコンのなかで、シャンパンの泡にも喩えられる、ともに滅び失われていくいまここを見せびらかしながら、どこまでも酔いしれていこうとする衰亡感覚とは、まさに〈solamente amore....〉という文末に束ねられていて、「ソラメンテ アモーレ」と聴こえてきたその語感は、絶対に石と金属でできたあの言語にしかなせない体感温度を放っていることが分かった。そして、旋律が高じていけばいくほど、決まってある種の衰亡の形相を引き起こすなどという「桜の木の下には死体が埋まっている(梶井基次郎)」とか「美しい神殿を建造するのは奴隷である」といった摂理にも通ずる、ポジティブな美がそれ自体として裏側に潜ませる、崩壊の形相をみるみる浮き上がらせていって、「優れた旋律」というときの「優れた」という動詞の連用形が指し示すところの月桂冠、が音楽のうえに載せられていくのを聴いた。[…]

鑑賞日記その一(ぷろ☆ぷら朗読ライブ)

2019.7.19

ぷろじぇくと☆ぷらねっと

《ぷろ☆ぷら朗読ライブ@品川なかのぶ》

 ぷろ☆ぷら朗読ライブには、初回となった前回(6/15)とともに、再び聴きに行きました。

 中延駅から歩いてすぐのところに位置する《インストールの途中だビル》は、そのネーミングセンスもさることながら、ビルまるごとライブハウスを束ねており、すぐ隣には中華料理店があり、会場の4階まではエレベーターではなく階段で登らないともったいないといった具合に、手すりとか壁とかにさまざまな装飾がなされています。

 写真家・大石裕之さんとのコラボレーションということで、ドアをくぐれば白い大きなテーブルの上に大空と雲、水鏡に映った明るい都市(モノクロ)、といった写真が置かれ、彩りみずみずしく、砂地に残った足跡のこの写真、一体どこで撮られたんだろうなどと、隣に座られた詩人の浅見龍之介さんともお話しながら、本日交通機関の事故が多発したとのこともあり、少々繰り下がった開始時間を迎えました。

 詩と写真とのコラボレーションとお聞きし、どういったものを見ることができるのかと大変未知未知していたのですが、いざ繰り広げられれば《詩:蠢く言葉》《写真:静止した光景》というステレオタイプは覆され、写真は網膜のひしめきとともに詩の内景を次々に書き換え、そして詩は鼓膜を震わせながら、写真にも蠢きを与えていきます。つまるところこの空間において、写真とはそれをまなざす者自身の移ろいを、その都度その都度に映し出す、ゆれうごく鏡となっていくのです。

 (以下記憶をもとに記すので、演目と演出とが違っている可能性がありますが、なにとぞご了承ください。)

 両者の絶え間ない映しあい、与えあいが特に印象深かったのが、川名千秋さんにより自身のエッセイが朗読されるなか、その中に書かれた即興ダンスの写真を観客同士が手渡しで回しあうという場面。手元にまわってきたのは、エッセイの舞台となった森林のなかで、祈りのようななにものかに向かって手を差し伸べようとする瞬間の写真でした。まさに朗読される伸びやか開放と、写真に映った目線とが、上にむかって伸びていくといった気配を漂わせ、どんな写真が手元に届けられてくるのだろうか、手元に届けられたそれを隣の人に回すときのさりげない会釈とか、わたしたち聞き手のなかにも細やかな参画が促され、とてもささやかなひとときとなりました。 

 またとりわけ重要な意味合いをもった局面はなんといっても、宮島の舞楽(うろ覚えゆえ違っていたらすみません)のお面をつけて、演者も客も全員が顔を隠し、大石さんが写真撮影をしSNSに投稿する、というシーンでしょう。《参加型朗読会》という側面は、このSNSへの投稿によってさらにその性質を深めていきます。SNSでこの写真を見た人にも、この朗読会への擬似的な参加が生じる、といった具合にでしょうか。

 ちなみにここで使われたお面は「千と千尋の神隠し」の「春日様」というキャラクターのモデルともなったようで、縁起物だそうです。当初「千と千尋の神隠し」の「カオナシ」でもよかったんじゃないかという案があったらしいのですが、もれなく却下されたというMCがなされました。しかし何気ない冗談のように交わされたこの振りは、次の演目である「前夜祭」「さいしょの空」における演出とも関わってくるだけでなく、今回全体のセットリストを束ねるひとつの核となるテーマだったと思われてなりません。

 その⑦「前夜祭」⑧「最初の空」では、稽古場での写真がプロジェクションされるとともに、大石さんによる朗読のなか、日疋さんと川名さんが、崩れ落ちたような表情の顔の写真で、自分の顔を覆いながらその場を彷徨う、というジェスチャーがありました。まずは稽古場の写真によって、いまここの読みに至るまでの舞台裏を含む時空間的な動線をメタレベルに辿ることができます。 

 一方、自分の顔を自分の顔の写真で覆いながら彷徨う、というとまさにとても異様なものとして映りましたが、もしかしたら自然なのかもしれません。わたしたちは生活のなかで様々な役割を演じなくてはいけない場面は多々ありますが、「場面」と書いたとおり、いかなる日常であれ、それは表層なり深層なり多種多様な演技で織られた舞台のようなものなのです。

 ではそのなかで、本当の顔とはなんであって、どこにあるのでしょう、という問いを、その「顔」が発しているようでした。顔だけではなく、やはり詩にも朗読にも踊りにもペルソナがあり、いま読まれている言葉は常にニセモノかもしれない、千と千尋の神隠しにおけるカオナシのように虚ろなものなのかもしれない、という告発を浮き上がらせていきます。

 これによって詩は、ただひとつの主体から一直線に射られていく言葉の乱れ打ちだけではない、さまざまな他者性から、さまざまな距離感から眺めうるものとして浮き上がってきました。

 であればこそ、自らの詩を自ら朗読するときでさえ、それは絶えず新しい主体性から眺めうるのだというメッセージは、⑯「遺書」の最終局面で連呼される「生きねば」の声質にも波及していたのではないかと感じられます。日疋さんの声は、前回と前々回(『文芸思潮』朗読会)のときよりもずっとやわらかく感じられ、それゆえにこの詩の別な一面としての優しみ、も捉え直すことができたのです。

 全体を通して、前回の朗読ライブより、肩の力をときほぐしながら聴けたような気がしました。日疋さんの詩は、自明世界のなかで名指しされないものを外側から名指しすることで思考を揺さぶろうとか、その外殻を軽やかに象ろうとかそういった姿勢よりも、伝え尽くせないものを言葉の底からどうにか掘り起こし、それらと内側から共存しようとする姿勢の、あくまで限りない「前向きさ」を重視されていると自分には感じられ、その前向きな声にいつも励まされます。とりわけ今回は、声にいつも以上の余裕、といってしまうと月並みかもしれませんが、聴いていると、よりみずみずしい開放感やドライブ感、あるいは季節感、といったようなものが訪れてきました。

 演目が終わったのち、恒例の交流会がありました。私が今まで身近なところで出逢って、このひとは博覧強記だ!と感銘を受けた先輩が何人かいらっしゃるのですが、ここに足を運ぶ理由のひとつに、その一人でいらっしゃる浅見さんとお話を交わせることがとても愉しいというのもあります。

 とくに日本史とドイツ文学・音楽に関して大変造詣が深く、最近はヨーゼフ・フォン・ヴェスによるマーラー大地の歌」の分析を訳されたそう。陽明学から始まり、さらには都築隆広先生からの遠野物語や漫画の話題なども次々に投じられるなら、さらに多岐に渡っていきます。

 そのなかでもとりわけ《「怪談」と創作における「若さ」の連環》とか、《エンターテイメントと純文学を分かつ物語の転結についての類型》など、貴重すぎるのでここで細部を明かすことはできませんが、実に示唆に富んだもの。

 特に後者を音楽作品にあてはめてみた場合、オペラと交響曲のフィナーレの相違ついての試論が書けそうといった気がしてきましたが、しかし音楽と純文学が異なる点は、いかに交響曲といえどもそのフィナーレはいきなり的華やぎへの転覆がほとんどを占めていて、純文学的な交響曲というのはほぼ歴史的・文化的に不可能だったのではないかという処。結局、歌劇場も、コンサートホールもエンターテイメント空間に収束していくという公然が根付いていたのだという認識へ、いま書きつつ思い至ったところであります。

 完全に逸脱してしまいましたが、本筋に戻ると、そしてこの度も、隣の中華料理店で調理されたメニューを、口へ運ぶ味がより一層濃く感じられるような、会でした。

 ひさしぶりのきくらげの味です。