地球の質量に占めるケサランパサランの割合

常に未完成の文章を公開していく試みです。

鑑賞日記その一(ぷろ☆ぷら朗読ライブ)

2019.7.19

ぷろじぇくと☆ぷらねっと

《ぷろ☆ぷら朗読ライブ@品川なかのぶ》

 ぷろ☆ぷら朗読ライブには、初回となった前回(6/15)とともに、再び聴きに行きました。

 中延駅から歩いてすぐのところに位置する《インストールの途中だビル》は、そのネーミングセンスもさることながら、ビルまるごとライブハウスを束ねており、すぐ隣には中華料理店があり、会場の4階まではエレベーターではなく階段で登らないともったいないといった具合に、手すりとか壁とかにさまざまな装飾がなされています。

 写真家・大石裕之さんとのコラボレーションということで、ドアをくぐれば白い大きなテーブルの上に大空と雲、水鏡に映った明るい都市(モノクロ)、といった写真が置かれ、彩りみずみずしく、砂地に残った足跡のこの写真、一体どこで撮られたんだろうなどと、隣に座られた詩人の浅見龍之介さんともお話しながら、本日交通機関の事故が多発したとのこともあり、少々繰り下がった開始時間を迎えました。

 詩と写真とのコラボレーションとお聞きし、どういったものを見ることができるのかと大変未知未知していたのですが、いざ繰り広げられれば《詩:蠢く言葉》《写真:静止した光景》というステレオタイプは覆され、写真は網膜のひしめきとともに詩の内景を次々に書き換え、そして詩は鼓膜を震わせながら、写真にも蠢きを与えていきます。つまるところこの空間において、写真とはそれをまなざす者自身の移ろいを、その都度その都度に映し出す、ゆれうごく鏡となっていくのです。

 (以下記憶をもとに記すので、演目と演出とが違っている可能性がありますが、なにとぞご了承ください。)

 両者の絶え間ない映しあい、与えあいが特に印象深かったのが、川名千秋さんにより自身のエッセイが朗読されるなか、その中に書かれた即興ダンスの写真を観客同士が手渡しで回しあうという場面。手元にまわってきたのは、エッセイの舞台となった森林のなかで、祈りのようななにものかに向かって手を差し伸べようとする瞬間の写真でした。まさに朗読される伸びやか開放と、写真に映った目線とが、上にむかって伸びていくといった気配を漂わせ、どんな写真が手元に届けられてくるのだろうか、手元に届けられたそれを隣の人に回すときのさりげない会釈とか、わたしたち聞き手のなかにも細やかな参画が促され、とてもささやかなひとときとなりました。 

 またとりわけ重要な意味合いをもった局面はなんといっても、宮島の舞楽(うろ覚えゆえ違っていたらすみません)のお面をつけて、演者も客も全員が顔を隠し、大石さんが写真撮影をしSNSに投稿する、というシーンでしょう。《参加型朗読会》という側面は、このSNSへの投稿によってさらにその性質を深めていきます。SNSでこの写真を見た人にも、この朗読会への擬似的な参加が生じる、といった具合にでしょうか。

 ちなみにここで使われたお面は「千と千尋の神隠し」の「春日様」というキャラクターのモデルともなったようで、縁起物だそうです。当初「千と千尋の神隠し」の「カオナシ」でもよかったんじゃないかという案があったらしいのですが、もれなく却下されたというMCがなされました。しかし何気ない冗談のように交わされたこの振りは、次の演目である「前夜祭」「さいしょの空」における演出とも関わってくるだけでなく、今回全体のセットリストを束ねるひとつの核となるテーマだったと思われてなりません。

 その⑦「前夜祭」⑧「最初の空」では、稽古場での写真がプロジェクションされるとともに、大石さんによる朗読のなか、日疋さんと川名さんが、崩れ落ちたような表情の顔の写真で、自分の顔を覆いながらその場を彷徨う、というジェスチャーがありました。まずは稽古場の写真によって、いまここの読みに至るまでの舞台裏を含む時空間的な動線をメタレベルに辿ることができます。 

 一方、自分の顔を自分の顔の写真で覆いながら彷徨う、というとまさにとても異様なものとして映りましたが、もしかしたら自然なのかもしれません。わたしたちは生活のなかで様々な役割を演じなくてはいけない場面は多々ありますが、「場面」と書いたとおり、いかなる日常であれ、それは表層なり深層なり多種多様な演技で織られた舞台のようなものなのです。

 ではそのなかで、本当の顔とはなんであって、どこにあるのでしょう、という問いを、その「顔」が発しているようでした。顔だけではなく、やはり詩にも朗読にも踊りにもペルソナがあり、いま読まれている言葉は常にニセモノかもしれない、千と千尋の神隠しにおけるカオナシのように虚ろなものなのかもしれない、という告発を浮き上がらせていきます。

 これによって詩は、ただひとつの主体から一直線に射られていく言葉の乱れ打ちだけではない、さまざまな他者性から、さまざまな距離感から眺めうるものとして浮き上がってきました。

 であればこそ、自らの詩を自ら朗読するときでさえ、それは絶えず新しい主体性から眺めうるのだというメッセージは、⑯「遺書」の最終局面で連呼される「生きねば」の声質にも波及していたのではないかと感じられます。日疋さんの声は、前回と前々回(『文芸思潮』朗読会)のときよりもずっとやわらかく感じられ、それゆえにこの詩の別な一面としての優しみ、も捉え直すことができたのです。

 全体を通して、前回の朗読ライブより、肩の力をときほぐしながら聴けたような気がしました。日疋さんの詩は、自明世界のなかで名指しされないものを外側から名指しすることで思考を揺さぶろうとか、その外殻を軽やかに象ろうとかそういった姿勢よりも、伝え尽くせないものを言葉の底からどうにか掘り起こし、それらと内側から共存しようとする姿勢の、あくまで限りない「前向きさ」を重視されていると自分には感じられ、その前向きな声にいつも励まされます。とりわけ今回は、声にいつも以上の余裕、といってしまうと月並みかもしれませんが、聴いていると、よりみずみずしい開放感やドライブ感、あるいは季節感、といったようなものが訪れてきました。

 演目が終わったのち、恒例の交流会がありました。私が今まで身近なところで出逢って、このひとは博覧強記だ!と感銘を受けた先輩が何人かいらっしゃるのですが、ここに足を運ぶ理由のひとつに、その一人でいらっしゃる浅見さんとお話を交わせることがとても愉しいというのもあります。

 とくに日本史とドイツ文学・音楽に関して大変造詣が深く、最近はヨーゼフ・フォン・ヴェスによるマーラー大地の歌」の分析を訳されたそう。陽明学から始まり、さらには都築隆広先生からの遠野物語や漫画の話題なども次々に投じられるなら、さらに多岐に渡っていきます。

 そのなかでもとりわけ《「怪談」と創作における「若さ」の連環》とか、《エンターテイメントと純文学を分かつ物語の転結についての類型》など、貴重すぎるのでここで細部を明かすことはできませんが、実に示唆に富んだもの。

 特に後者を音楽作品にあてはめてみた場合、オペラと交響曲のフィナーレの相違ついての試論が書けそうといった気がしてきましたが、しかし音楽と純文学が異なる点は、いかに交響曲といえどもそのフィナーレはいきなり的華やぎへの転覆がほとんどを占めていて、純文学的な交響曲というのはほぼ歴史的・文化的に不可能だったのではないかという処。結局、歌劇場も、コンサートホールもエンターテイメント空間に収束していくという公然が根付いていたのだという認識へ、いま書きつつ思い至ったところであります。

 完全に逸脱してしまいましたが、本筋に戻ると、そしてこの度も、隣の中華料理店で調理されたメニューを、口へ運ぶ味がより一層濃く感じられるような、会でした。

 ひさしぶりのきくらげの味です。